第22章 村社会
村社会とバンド社会のあいだの最大のちがいは、村は拠点を変え(ふつうは新たに開墾した畑のある場所へ)、バンドほどには分裂や結合をしないということだけである。
集団としてのアイデンティティのしるしは、このような複数の村からなる部族の集合をひとつの社会として定義した
なるほど。セミラティス構造になってる話ぽい
ここめっちゃ思いました。
書籍で最初にバンド社会の話をずっとされてきていたので、村との境界?はどこなんだろうって気になっていたのでスッキリした感じ。
ループ・ゴールドバーク・マシン的な複雑きわまりない性質をもつ社会的な実体をあやつっている
どういうことなんだ。。。
日本のピタゴラスイッチみたいなやつっぽいですね。初めて知ったけど
おなじところみていました。日本語訳するときに、意訳でピタゴラスイッチって書いてほしいけど、あきらかに問題ありそうw
人類学者がバンドを研究するほうを好み、バンド社会には目を向けず、得てして過小評価をしていたように、人類学の研究事例のほとんどが、すべての村を包括的にとらえるのでなく、個々の村に着目したものだった。このように注目の偏りがあるのは、ひとつには村に自治性があるためだ
なるほどね。まあ、考古学でも似たような感じではありますね。個別研究を増やしていって、それらを包括して解釈する人はある意味限られるイメージ(大御所感)
狩猟採集民や部族社会がしるしの変化に順応できないことは、この点において国家が華々しい成功を収めていることとまったく対極的である。まさに文明の誕生を理解するためには、どのようにしてさまざまな市民が入り混じるようになり、ついには今日の民族や人種ができたのかを知る必要がある。
続きが気になる
自分たちを人間という意味で使って、それ以外を人間じゃないって考えるのは、ほんとうに100年くらいまえまでは普通だったんだよね。。。とか思うと、村社会における集団としてのアイデンティのしるしはいまでも根深いなー。